まだ海外旅行に行ったことがなかったころ、一番行ってみたい国はインドだった。
混沌と喧騒。日本の常識は通じない、ありえないほどの非日常感に惹かれた。ヒンドゥー教の独特の雰囲気やカオス具合に、カタルシスを感じ、圧倒的なエネルギーと生と死が渦巻く異世界や、強烈な不条理に魂を強く揺さぶられ、美だけでなく醜さえも魅力を感じていたのである。
やがて海外旅行に行くようになるうちに、いつの間にかインドは憧れの地ではなくなっていた。人をだます人間や、ぼったくりには嫌悪感しかなく、ちくいち値段交渉するのもわずらわしいだけ。不衛生さや貧困のありさまにふれるのもさけるようになっていった。こういった喧騒や猥雑さが楽しい人もいるだろうが、自分にはそれはなかったのだ。
インドなんて行きたくない、むしろそう考えるようになったころ、インドで行ってみたいところができた。そこは、インドであってインドでない、インドのなかの異境といわれる北の果て、ラダックだ。ヒンドゥー教が中心のインドのなかで、ヒンドゥー色は極めて薄く、8世紀に伝わったチベット仏教の教えを守り受け継ぐ、平均標高3,500mの山岳地帯の秘境だ。
星が見えそうなほど、青く澄みきった空。インドと真逆のように穏やかに暮らす人々。富士山のてっぺんとほぼ同じ高さの場所に、忘れかけた大切な何かがある気がした。