昨年に引きつづき、ラダックへ。昨年は2度目のラダックだったのだが、はじめて訪れたときから、4年もの間隔が空いていたこともあり、誰にも覚えられておらず悲しかったのと、また一からやりなおすのも面倒なので2年連続で訪問してみたのだ。
相手が大人であれ子供であれ、忘れられているのというのはなかなか悲しいもんである。相手が自分のことを覚えてるかどうかは、言葉が通じなくてもわかる。明らかに表情が違うし、目の輝きも違うようにも思う。何日か滞在していると徐々にそういう顔になっていくが、短い旅行だとやっと馴染んできたころにはお別れだ。
再訪したとき、相手が覚えていないと、また、ふりだしからのスタートとなる。覚えている場合は前回からの引きつづきのような感じで、前よりもワンステップ奥に行くことができたりする。たとえば、お家にお呼ばれしたりだとか、挨拶されたり名前で呼ばれるようになったり。そういうことが新たに生まれるので、ただの旅行では味わえないような体験もできたりするようになる。
トゥルトゥク村は今回で3回目だが、誰かの家に入るのははじめて。なかに入ると意外や意外、普通の家だった。普通というか、見慣れた家の中というべきか。そこは居間だったのだが、ローテーブルがあり、ソファもあった。なんだそんなことか、と思うかもしれないが、この村には車が入って来れない。村は崖の上のようなとこにあるので、車で入れないばかりか、結構きつめの石段を登ってこないといけないのだ。そんな環境なのに、ごく普通の家みたいにソファとかあるもんだから驚いたのだ。
壁には絵も飾っていた。その絵は絵というよりただのモザイク。まるで裸眼立体視で見ると浮き出して見える、ステレオグラムのようだなと思っていたら、実際にそうだという。こういったものもあるんだと驚きつつ、何が見えるとかと見てみると、浮かんできたのは、なんとモスク。お硬そうなイメージのあるイスラム教が、こんなのを作ってるのがおもしろおかしい。これはちょっと欲しかったし、せめて写真に撮っておけばよかった、と少し悔いている