私は外国に行くとき、いつも折り紙を持っていく。折り紙は言葉が通じなくても楽しめるのと、日本らしさもあって、外国人相手にはとてもよいコミュニケーションアイテムになる。取り立てて上手ではないので、複雑なのは折れないけれど、それでもはじめて見る子供たちの心を動かすには充分だ。
折り紙は子供だけでなく大人も喜んでくれる。遊ぶ以外にも、ごちそうになったときや、親切を受けたときなんかにも、お礼としても折っている。大人も子供のように目を輝かせながら喜んだりするのが、見ていておもしろい。たまに紙くずを見るような目をする人もいる。たしかに見ようによっては、紙くずに近い。そういう人を見極めるのにも、よいアイテムなのだ。
折ってあげるばかりでなく、折り方を教えながら一緒に折って楽しむことも多い。今までどこでどれくらい教えてきたかは数え切れないが、訪れた小学校で先生から生徒に折り紙を教えて欲しいとリクエストがあって、つたない折り紙先生をしたのはよく覚えている。ネパールやミャンマー、フィリピン。マケドニアでは、はじめての欧州デビューも果たした。今回のラダックでも行った。
この日は午前中にビャマの村のチベット仏教徒の小学校で、午後はハヌーの村のムスリムが通う小学校で。二回も折り紙先生をした。ムスリムの学校での折り紙先生は、はじめてである。
折り紙を折るときや教えているとき、途中で何を折ってるのかと聞かれても、はぐらかして秘密にしている。ずっと不思議そうな顔をしているが、折鶴だと最後に羽を引っ張って広げる瞬間、パッと表情が明るくなる。そう、まさにプレゼントの箱を開けたときの顔だ。その瞬間をにやにやしながら眺めるのが、密かな楽しみなのである。